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【街道を往く】
山陰への道

      2015/09/13

大山を左手に見て9号を突き進む。
大山(だいせん)。その読みから修験僧の山岳信仰の山であったのはよそ者の私にとっても想像に固くない。
しかし、私の気を引いたのは、大山ではなくその麓にある船上山と名和という地名であった。

伯耆(ほうき・ははき)。この文字から私は後醍醐天皇を真っ先に思い浮かべるのである。
後醍醐天皇がその猛威をふるったのは、鎌倉末期から室町にかけての頃である。
日本の歴史上、天皇家はお行儀が良い方ばかりなのであるが、数代に一度、突然変異のような君が現れる。
後醍醐天皇はそのひとりである。
名和長年(なわ ながとし)。鎌倉幕府によって隠岐に流された後醍醐天皇が本土に再上陸した際、「たまたま」たどり着いた土地の地侍である。
いや、もしかしたら当時は地侍ですらなかったのかもしれない。
名和長年は伝えるところによると、漁師であり海運業者であった。大和朝廷はその昔、生産的な食料確保と税収の確保のため弥生式稲作農業を「布教」した。そして狩猟的な非生産的生活をしていたネイティブジャパニーズである縄文人を駆逐した。

平清盛がその世を栄華をふるったのは、平家一門郎党のコメのためである。
源頼朝が朝廷に対峙してまで鎌倉に軍事政権を持ったのは、東国武者のコメのためである。
武士の戦闘動機のすべてはコメと、コメを生む土地である。もう一度。地侍名和長年の生業は海にある。
海運業者(海賊?)の名和一門が後醍醐の光臨以前に武士という階級の中でのどのような位であったかは想像に固くない。

名和一門には棚からぼたもちである。その一族の存続にかけて名和一門はこの賊となった天皇に掛けたのである。さて後醍醐天皇である。この天皇の時代は、天が北へ南へと移り変わる日本史の中で最も複雑な時代である。

日本の国内戦争の歴史は、結局は賊か錦かで決まる
かつてはヤマトタケルが、天皇軍の先鋒となり稲作弥生文化の布教のため東征した。
平安時代においては、東北地方のネイティブジャパニーズ達に蝦夷というレッテルを貼り天皇軍に併呑された。
鎌倉幕府でさえ、その東国における壮大な権力を持ちながら京都を討つことはなかった。
例えば戦国時代である。勢力争いが複雑ではあるが、軍閥割拠というある意味秩序の中で展開された。
明治維新でさえ最後は賊か錦かの戦闘であり、天皇を擁立した薩長が勝ち、賊に転落した佐幕派や会津、ついには西郷隆盛ですら錦旗に負けた。鎌倉末期から南北朝の複雑さはその想像を超えるものである。家系の複雑さと皇位継承の意思決定の混乱により、天朝が分裂するのは、賊と錦という構図ではなく、錦と錦である。どちらの錦が正当か、ということで日本史上最も濁とした時代である。

鎌倉末期、錦の旗が移り変わる中、多くの男達がその運命に翻弄された。名和長年もその濁の中で栄光を掴み、そして没した

後醍醐天皇に思いを馳せながら9号を西進すると、平凡であった海岸線に米子の灯と幽玄な島根半島が見えてきた。

山陰である。

(続く)

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