浄光明寺。足利尊氏と縁のあるお寺
2019/10/16
寿福寺の通りから横須賀線の踏切を渡る。泉ヶ谷へ入ると浄光明寺があらわれます。
鎌倉独特の土紋を施した傑作阿弥陀像
太平記の時代。後醍醐天皇に朝敵と見なされ、苦悩した鎌足利尊氏は、このお寺で蟄居した鎌と言われています。写真は浄光明寺の客殿。
夏、あじさいと浄光明寺
浄光明寺境内のあじさい
浄光明寺境内のあじさい。(2014年6月29日撮影)
浄光明寺のみどころ
浄光明寺の阿弥陀堂
山門正面の石段の上には、市天然記念物のマキの大木と阿弥陀堂が。中世の木材を用いて建てられた阿弥陀堂は、源頼朝が建立した今はなき二階堂永福寺から移築したとも伝えられています。
傑作と名高い浄光明寺本尊の阿弥陀三尊像
本尊の阿弥陀三尊像(国重要文化財)は1229年ごろの作。鎌倉地方の仏像彫刻の秀作のひとつ。宗朝美術の強い影響を受けたもので「土紋」と言われる装飾があり鎌倉時代独特の仏像様式です。
地蔵菩薩立像は、足利直義の守り本尊であり、矢拾地蔵(やひろいじぞう)といわれています。ある戦いで矢が尽きた直義に、子供が駆け寄り矢を差し出しました。その子供をよく見ると矢を持った地蔵の化身だったという伝説によるものです。
恋愛成就スポット、浄光明寺の楊貴妃像
世界三大美女のひとり、楊貴妃像。2003年に寄進されたこの像は鎌倉の隠れた美人祈願・恋愛成就スポットと言われています。
冷泉為相(れいぜんためすけ)の墓
裏山に14世紀の歌人、冷泉為相の宝篋印塔があります。藤原定家の孫であり「十六夜日記」の著者でもある阿仏尼の子、冷泉為相のお墓。歌道の名家、冷泉家(れいぜんけ)の始祖です。
網引地蔵
阿弥陀堂背後の山腹に佇む網引地蔵。由比ヶ浜の漁師があみにかけて引き揚げたといわれます。
浄光明寺とは(浄光明寺の歴史)
源頼朝の願いで文覚上人が建てたお堂が始まりといわれる浄光明寺。その後、鎌倉幕府御家人であり島津氏の祖である島津忠久が創建した寺を、鎌倉幕府6代執権、北条長時が再興したと言われています。
1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇側方の成良親王が鎌倉府将軍として着任。その際にこのお寺を祈願所に定めました。
鎌倉幕府を倒幕した足利尊氏。その尊氏が一時期この寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたといわれています。
1335年(建武2年)、鎌倉で北条氏の残党が起こした中先代の乱から3ヶ月たっても帰京しない足利尊氏に業を煮やした後醍醐天皇は、足利尊氏に対して追討の命を出した。そこで尊氏は朝廷への恭順を示すために、この浄光明寺に蟄居したと言われています。その後、弟の直義が尊氏の重い腰を上げさせ、一年に渡る朝廷軍との戦いを制し、足利尊氏は京都に室町幕府を開くのです。
浄光明寺の草花
梅、花菖蒲、萩など。
浄光明寺へのアクセス
鎌倉市扇ガ谷2-12-1
鎌倉駅西口より徒歩15分
浄光明寺について
- 拝観時間:午前9時~午後4時
- 拝観料:無料(阿弥陀堂拝観は200円)
- 駐車場:なし
- 山号:泉谷山(せんこくざん)
- 宗派:真言宗泉涌寺派(せんにゅうじは)
- 創建:1251年(建長3年)
- 開山:真阿(しんあ・真聖国師)
- 開基:北条長時
- 本尊:阿弥陀三尊
〜週末、お出かけ。鎌倉トリップ。〜