【大河ドラマ】鎌倉殿の13人とは
2021/02/14
舞台は鎌倉♪2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
2022年の大河ドラマの舞台はついに鎌倉時代♪ 三谷幸喜監督が「最高の大河ドラマに」と意気込むこの大河ドラマの主人公は、鎌倉幕府2代執権「北条義時(ほうじょうよしとき)」。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとよりとも)は十三人の家臣団に支えられていました。頼朝の死後、鎌倉幕府内で内部抗争を繰り広げるが、最後に残ったのは北条義時。鎌倉幕府の最高指導者である執権(しっけん)に北条義時が武士の頂点に上り詰めるまでの波乱万丈な鎌倉初期を描いたものです。
【大河ドラマ】鎌倉殿の13人のあらすじ
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無謀な大博打ばくちに乗った。
頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。 “飾り” に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿すげ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵かじを取る。源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ──。
NHK2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」より引用
【大河ドラマ】鎌倉殿の13人とは、いったい誰?
頼朝の死後、第2代鎌倉幕府将軍となった「源頼家(みなもとのよりいえ)」の時代に、鎌倉幕府は当時の有力者13人の合議制へと移行しました。
その合議制を構成した13人が、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とタイトルになっている以下の13人です。
- 北条義時 (ほうじょう よしとき):演者 小栗旬
- 北条時政 (ほうじょう ときまさ):演者 坂東彌十郎
- 梶原景時 (かじわら かげとき):演者 中村獅童
- 比企能員 (ひき よしかず):演者 佐藤二朗
- 安達盛長 (あだち もりなが):演者 野添義弘
- 和田義盛 (わだ よしもり):演者 横田栄司
- 大江広元 (おおえ ひろもと):演者 栗原英雄
- 三善康信 (みよし やすのぶ):演者 小林隆
- 三浦義澄 (みうら よしずみ)
- 中原親能 (なかはら ちかよし)
- 二階堂行政 (にかいどう ゆきまさ)
- 足立遠元 (あだち とおもと)
- 八田知家 (はった ともいえ)
【大河ドラマ】鎌倉殿の13人のキャスト
北条義時 (ほうじょう よしとき)を演じるのは、主演の「小栗旬」さん。2020年8月には元SMAPの「香取慎吾」さんが出演するのではないかと週刊誌が報じています。
ほかのキャストは以下の通り2020年11月順次発表されています。
- 平清盛 (たいらのきよもり):演者 松平健
- 平宗盛 (たいらのむねもり):演者 小泉孝太郎
- 土肥実平 (どひさねひら):演者 阿南健治
- 源行家(みなもとのゆきいえ):演者 杉本哲太
- 阿野全成(あのぜんじょう):演者 新納慎也
- 源範頼(みなもとののりより):演者 迫田孝也
- 源義経(みなもとのよしつね):演者 菅田将暉
- 源頼朝(みなもとのよりとも):演者 大泉洋
- 北条政子 (ほうじょう まさこ):演者 小池栄子
- 源頼家(みなもとのよりいえ):演者 金子大地
- 北条宗時 (ほうじょう むねとき):演者 片岡愛之助
- 頼朝の愛娘・大姫(おおひめ):演者 南沙良
- 牧の方:演者 宮沢りえ
- 畠山重忠(はたけやましげただ):中川大志
- 三浦義村 (みうら よしむら):演者 山本耕史
- 伊東 祐親(いとう すけちか):演者 辻萬長
- 阿波局 :演者 宮澤エマ
北条義時にゆかりのある鎌倉スポット
北条義時(ほうじょう よしとき)とは
この大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公。鎌倉殿の13人のひとり、北条義時 (ほうじょう よしとき)。北条時政の四男。のちの鎌倉幕府第2代執権。
父・北条時政や、母・北条政子に比べると一見地味な印象を持ちますが、鎌倉幕府初期の混乱期である御家人同士の内部抗争を生き残り、鎌倉幕府の最高指導者である執権(しっけん)に上り詰めます。また、朝廷と幕府の抗争を「承久の乱」にて平定し、最終的に鎌倉幕府の確固たる地位を築き上げました。
四郎、相州殿などと呼ばれています。
「覚園寺」北条義時に助言を与えた戌神将
北条義時に助言した戌神将を含む十二神将仏像が拝観できます。
寺僧がガイド付きで境内を拝観してくれるユニークなお寺、覚園寺。8月に執り行われる黒地蔵でも有名ですが、本堂薬師堂には、三尊像を取り巻くように戌神将を含めた十二神将仏像が安置されています。
1218年(建保6年)、鶴岡八幡宮で執り行われた「源実朝(みなみもとさねとも)」の右大臣拝賀式に参加した北条義時は、白い犬の姿を見て気分が優れなくなり、役を辞して退席。その直後、公卿による源実朝暗殺事件が起こります。そして北条義時の代理を努めた中原仲章は、源実朝とともに公暁に暗殺されてしまいました。
この白い犬は、現在覚園寺に安置されている戌神将 (伐折羅大将・ばさらたいしょう)が姿を変えたもので、義時に暗殺の危機を告げたのだと言われています。
- 拝観時間:拝観案内は約50分、午前10時~午後3時
- 拝観料:拝観案内は、大人:500円、小中学生:200円
- 所在地:鎌倉市二階堂421
- アクセス:JR「鎌倉駅東口」4番のりばから京急バス「大塔宮」行き「大塔宮」下車徒歩10分
「法華堂跡」北条義時の墓
北条義時のお墓の遺構
北条義時のお墓は鎌倉の西御門にあったとされる法華堂とされています。急な石段を登った広場にその遺構が残っています。吾妻鏡では、源頼朝の法華堂より東の山に新たに当時の権力者である北条義時の法華堂が建てられて葬られたと記録が残っていましたが長くその場所は不明でした。2005年に鎌倉市教育委員会の発掘調査によりその法華堂跡の遺構が発見されました。
- 所在地:鎌倉市西御門2
- アクセス:JR鎌倉駅から徒歩約20分
梶原景時とゆかりのある鎌倉スポット
梶原景時(かじわら かげとき)とは
鎌倉殿の13人のひとり、梶原景時(かじわらかげとき)。相模の坂東御家人。源頼家の乳母夫。様々な逸話をもつ著名な御家人。
鎌倉幕府草創期にあたる、1180年(治承4年)。石橋山の戦いで平家方で参戦した梶原景時。敗走する源頼朝を山中で見つけたが、見逃したという逸話があります。
その後、鎌倉幕府の御家人として活躍。源平合戦にも軍監として登場、源義経の失脚に梶原景時の讒言が影響したと言われ、「讒言の平三」の異名を持ちます。
源頼朝の死後、2代將軍「源義家(みなもと よりいえ)」時代に失脚。京都に上洛し体制を立て直そうとするものの、上洛中の戦闘で一族とも非業の死を遂げます。
歌舞伎では「梶原平三誉石切」という演目や、その他さまざまな演目にもたびたび登場する悲劇の武将。
【朝夷奈切通し】梶原太刀洗水
鎌倉の草創期を代表する逸話の舞台である梶原太刀洗水。
1183年(寿永2年)、鎌倉時代に差し掛かるまさに時代の変革期、梶原景時が上総介広常の屋敷で広常を暗殺しました。その時、梶原景時がこの湧き水で太刀の血を洗い流したという伝説が残されています。
梶原景時が太刀の血を洗い流した逸話の舞台
- 所在地:鎌倉市十二所~横浜市金沢区朝比奈付近
- アクセス:鎌倉駅から京急バス、十二所神社バス停より徒歩約15分
【建長寺】梶原景時の亡霊が現れたという三門
現在では北鎌倉を代表する大寺、建長寺。創建間もない頃、施餓鬼会を行った直後に騎馬武者姿の梶原景時の亡霊が現れたという言い伝えがあります。
以来、7月15日の三門施餓鬼会に引き続いて、もう一度梶原施餓鬼会を行うのが現在でも習わしになっています。
梶原景時と建長寺の三門
- 所在地:鎌倉市山ノ内8
- アクセス:北鎌倉から徒歩15分
大江広元とゆかりのある鎌倉スポット
大江広元(おおえのひろもと)とは
鎌倉殿の13人のひとり、大江広元(おおえのひろもと)。朝廷出身の文官・吏僚派。鎌倉幕府草創期から承久の乱まで、幕府の頭脳となって活躍。
【大江廣元邸碑】大江広元の屋敷跡
鎌倉幕府の創設の功績者、大江廣元(大江広元)の屋敷跡は、十二所の明石橋の奥にあります。
大江広元は代々学問の家の出。広元は源頼朝に招かれ、鎌倉に来てからは政治の中枢にあり、政治の面で頼朝を支えました。
大江廣元邸碑。十二所の史跡
- 所在地:神奈川県鎌倉市十二所921-3
- アクセス:鎌倉駅から京急バス、十二所神社バス停より徒歩約15分
大江広元の墓
西御門ある北条義時墓(法華堂跡)から急な石段を登った先に、長州藩によって建てられた大江広元の墓が残っています。
長州藩によって建てられた大江広元の墓
- 所在地:鎌倉市西御門2
- アクセス:JR鎌倉駅から徒歩約20分
比企能員とゆかりのある鎌倉スポット
比企能員(ひき よしかず)とは
鎌倉殿の13人のひとり、比企能員(ひきよしかず)。武蔵の坂東武者の棟梁。鎌倉幕府初期の有力御家人。
鎌倉幕府二代将軍「源頼家(みなもとよりよし)」の乳母夫であったことから、源頼朝の死後、急速に幕府内で台頭。このため「北条時政(ほうじょうときまさ)」率いる北条氏と対立を強める。北条時政の陰謀比企能員の変(比企の乱)により非業の死を遂げ、続く幕府軍との戦闘で比企一族は滅亡することになる。
【妙本寺】比企一族の拠点
妙本寺の寺域はかつて有力御家人である、比企能員邸があったことろです。
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝(みなもとのよりとも)」の死後、幕府の権力者「北条時政」と幕府の有力御家人「比企能員」は幕府の主導権争いから対立します。その結果、比企能員と棟梁とする比企一族は1203年(建仁3年)北条時政率いる北条氏によってこの妙本寺のある比企ヶ谷で滅ぼされてしまいます。
悲劇の比企一族の歴史を背景に建つ山のお寺。
- 拝観時間:日没まで
- 拝観料:なし
- 所在地:鎌倉市大町1-15-1
- アクセス:JR鎌倉駅より徒歩15分
北条時政にゆかりのある鎌倉スポット
北条時政(ほうじょう ときまさ)とは
鎌倉殿の13人のひとり、北条時政(ほうじょう ときまさ)。北条家の棟梁で北条義時の父。伊豆の豪族で、源頼朝の挙兵を助けた立役者。のちの鎌倉幕府第初代執権。
【釈迦堂口切通し】北条時政の名越山荘
釈迦堂切通のあたりは、北条時政の名越山荘があったところといわれています。1203年(建仁3年)権力の比企能員(ひきよしかず)への権力集中を恐れた時政が比企能員を呼び出して謀殺したいわゆる「比企能員の変」の舞台となった山荘はこのあたりだったといわれています。
中世鎌倉の雰囲気を最もよく残す趣きのある古道です。
- 所在地:鎌倉市大町6丁目~浄明寺1丁目(付近)
- アクセス:鎌倉駅東口より徒歩35分。または「鎌倉霊園・太刀洗」行など金沢街道方面バス 「杉本観音」下車徒歩10分
安達盛長にゆかりのある鎌倉スポット
【甘縄神社】安達盛長の屋敷跡
鎌倉殿の13人のひとり、安達盛長(あだちもりなが)。
鎌倉最古といわれる神社。甘縄神明神社。甘縄神社の鳥居の脇には、安達盛長邸跡の石碑があります。
安達盛長を始め、歴史上高名な源氏の面々や川端康成と様々な人物と縁がある神社です。
安達盛長跡。鎌倉最古の神社、甘縄神社
- 所在地:鎌倉市長谷1-12-1
- アクセス:江ノ電長谷駅より徒歩5分
和田義盛にゆかりのある鎌倉スポット
【若宮大路】和田義盛の屋敷があった大通り
鎌倉殿の13人のひとり、和田義盛(わだよしもり)。
和田合戦にて幕府軍を相手に挙兵し鎌倉市街戦を繰り広げた和田義盛。館は現在の目抜き通りである若宮大路にあったといわれています。
和田義盛の館があったとされる若宮大路
- アクセス:鎌倉駅より徒歩3分
そのほかの鎌倉殿の13人
鎌倉殿の13人の生涯や押さえるべき特徴をご紹介します。(更新都度)
三浦義澄(みうら よしずみ)
鎌倉にほど近い三浦半島を押さえる御家人。古くは平治の乱では源義平に従う。
源頼朝が石橋山で挙兵した際は悪天候のため参戦できず、引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となる。その際には、父である三浦義明がと討死。
その後、源頼朝軍と合流し鎌倉に入る。その後、源平合戦に参加し武功を挙げ、鎌倉幕府有力御家人となる。
源頼朝死去後に「鎌倉殿の13人」となり、梶原景時の変の3日後に病没。
三善康信(みよし やすのぶ)
京都朝廷の官人から鎌倉幕府草創期の政務を支える存在となる
吏僚派。鎌倉幕府草創期から承久の乱まで、幕府の頭脳となって活躍。
元々は京都の貴族で、源頼朝が伊豆幽閉されていた時代に京都の情勢を知らせていた。
中原親能(なかはら ちかよし)
吏僚派。大江広元の兄。源頼朝の側近で、頼朝の代官として朝廷と幕府の折衝に努め、幕府の対公家交渉で大きな功績を果たした人物。
八田知家(はった ともいえ)
下野常陸を押さえる長老。鎌倉御家人。古くは保元の乱では源義朝について戦った。
源頼朝挙兵に早くから参加しており、源範頼率いる平氏追討軍に従軍した。
頼朝の弟で阿野全成(悪禅師)が北条氏と反頼家派を形成した際には、全成を誅殺した。
大河ドラマ鎌倉殿の13人をもっと知る
大河ドラマ鎌倉殿の13人には原作はありません。北条義時を題材とした歴史小説はほとんどありませんが、永井路子署「炎環(文春文庫)」がおすすめです。
直木賞受賞作品で初版はなんと1964年刊。鎌倉幕府の創建時にまつわる連作短編。4つの短編では、それぞれ以下の歴史人物が主人公となり、不安定な鎌倉幕府初期の鎌倉武士模様が鮮明に描かれています。
- 「悪禅師」:阿野全成(源頼朝の弟)
- 「黒雪賦」:梶原景時
- 「いもうと」:北条保子(北条政子の妹、阿野全成の妻)
- 「覇樹」:北条義時
大河ドラマ鎌倉殿の13人とは
Q. 大河ドラマ鎌倉殿の13人の13人とは誰ですか?
A. 北条義時、北条時政、比企能員、安達盛長、和田義盛、梶原景時、三浦義澄、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家。以上の13人です。
Q. 大河ドラマ鎌倉殿の主人公は誰ですか?
A. 鎌倉幕府第2代執権、北条義時(ほうじょうよしとき)です。
〜週末お出かけ。鎌倉トリップ。〜